千葉県の広部さん

真説『お富さん』
http://www.kisacon.jp/i/minwa/340.php

↑え~お富さんって、あのお富さん

死んだはずだよ お富さん

本当の話だったの


集団疎開の話
http://www.kisacon.jp/modules/pico2/index.php/content0140.html

医者どんという屋号?


真説『お富さん』
 『お富、与三郎』のお富さんは、本名は『よし』と言い、君津市坂田の油屋(先祖は廣部市右ェ門)に、寛政十年(一七九八)に生まれました。その家は椎の木の繁った大きな家でした。
 父は厳しい人で、お富が読み書きをひと通り習い終えた、十四、五歳の頃になると、江戸の深川のお屋敷に行儀見習いに出したそうです。
 その後、木更津の新宿の菱屋の若主人に見染められ、嫁入りいたしました。それは十六歳のときでした。菱屋は蔵が七ツもある網元だったので、よい家柄に嫁いでくれたと坂田の親戚も喜んでいたそうです。
 お富は、時には商売で江戸に往き来していたそうですが、船で往来しているうち、木更津の染物屋の型職人の与三といい仲となり、だまされて菱屋を出て、裸一貫のそれも親くらい歳の違う男と一緒になってしまいました。
 それが菱屋にわかり、与三は菱屋の奉公人達に切られて海に投げ込まれてしまいました。お富は、与三が死んだものと思い、江戸に逃げて行き、深川辺の芸者屋とか、芝居小屋とかに身を隠していました。
 一方、与三は運よく一命をとりとめ、傷が治ったので、お富を探しに江戸に出て、終にお富を見つけ出し、その後二人は、長唄に、芝居にと芸の道を歩んでいました。(この頃から芸名をお富というようになったと思います。)
 しかし、与三は四、五年後切られた傷がもとで、病気になり故郷に帰ろうとしましたが、駈落ち同様の身分でしたので、仕方なく、袖ヶ浦の坂戸附近の農家の離れを借りて、二人身を寄せていたそうです。
 その後、与三の病気が重くなり、兄という人が与三を引き取りに来ました。そして間もなく与三は兄のもとで亡くなりましたが、お富は臨終にも立ち会うことも出来ず、あとで「亡くなった」と、聞いたということです。与三が死んだと聞いたので、お富は、世話をしてくれる人があって、外房に近い所(茂原らしい)に嫁入りしました。
 茂原に嫁入りして間もなくのこと、深川の芸人がお富の嫁ぎ先の家を探して、色々説得して江戸に連れ出しました。与三は死んだのではなく、病気が治り、江戸にいると言って連れて行ったということです。ところが江戸にいたのは、与三ではなく芝居で与三郎を演じていた大吉という芸人であり、だまされたことを怒り、あばれたが、終には、芝居の与三郎役の大吉と結ばれ芸の道に励んだといいます。
 どうしてお富をこうも探したり、連れ出したりしたかというと、お富は、身振り動作が天下一品で、誰にも出来ないあでやかな身のこなしが出切るので、芸人仲間では無くてはならない人であったということであります。
 お富はこうして芸人として、芝居などに出演していましたが、明治十一年八月八十歳の生涯を終わりました。
 お墓は東京品川の妙国寺にあります。その墓石には、正面に三ツ葉楊羽蝶の紋がきざまれ、台石に、芳村と書かれ、
   (正面右に) 勇猛院徳翁日進信士 弘化四年六月十六日 四十八歳(本名大吉、芝居の与三郎役 東金の生まれ)
   (正面左に) 操立院妙精日護信女 明治十一年八月二十九日 八十歳
とあります。この操立院妙精日護信女がお富(本名よし)の戒名であります。
 木更津市の光明寺にある与三郎の墓は、染物屋の職人だった与三の墓です。いわゆる「切られ与三郎」の墓です。
 この墓には、
  慈久行心信士 文政七年(一八二四)とあります。
 私は坂田の油屋の子孫で、廣部弥三郎の妹とよ(君津市小山野の金谷家に嫁ぐ)の娘であります。従って母「とよ」や叔父の「弥三郎」に、およしさん(お富の本名)のことについて色々聞いている血縁者であります。



集団疎開の話

 昭和十九年六月、本土の空襲が盛んになりました。そこで、都会から疎開といって、学童などは田舎の親戚や知人を頼って移住しました。親戚などのない家の学童は、学年ごとに集団で空襲など余りない田舎に疎開しました。
 富岡村には、根岸に二組の集団疎開の小学生が来ました。旅人旅館をむかしやっていた油屋に十五名、医者どんという屋号の広部邸の空き室に二十五名、いづれも六年生の男子でありました。
 学校は本所の横川国民学校で、広部家の方は若い井上先生という方が、小使さんと二人で子どもたちをお世話していました。
 来村したのは八月末のことで、馬来田駅から徒歩で根岸まで隊列を組んで、遠足気分で来たといいます。
 しかし、その道のりは遠く、宿舎にたどり着いた頃は皆疲れてくたくたでした。でも緑の山や田んぼは、彼らにうるおいと爽快さを与えたのは事実でした。
 宿舎は数年空き家であったし、話が急であったので修理も出来ず、雨の漏るところもあり、雨戸もガタピシでした。
 これには東京で良い家に住んでいた子どもたちは戸惑ったらしいです。
 民家であるので、便所は家の中に一カ所であり、二十五名が使用するには無理でした。何よりも最初の仕事は便所作りでした。
 庭の隅に溝を掘って、板を渡して、周囲は筵で囲い、幸い男子生徒であったので、応急便所で当分使用されたようです。後に、村に良い便所を作っていただきました。
 水は近所の建具屋と半戸(はんど)という家の井戸が自噴し、水が豊富であったのでそれをいただきました。
 お風呂はそう簡単にいかないので、近所の家へ貰い風呂でした。
 主食の米麦は村役場で配給してもらい、野菜や芋は各部落に順次割当して供出していただき、困らぬようにしてもらっておりました。
 しかし、時には遠く田川や、吉野田方面にも貰いに子どもが行ったこともありました。荷馬車やリヤカーで届けてくれたり、また取りに行った時はふかし芋など御馳走になり嬉しかったと、子どもたちは喜んでいました。
 勉強は、週二日くらい富岡国民学校へ行って、教室を借りて半日くらい勉強しましたが、その他は、畳の上にノートを開いて勉強したそうです。勉強には不便であったらしい。
 一日の生活は、朝は六時に鐘の合図で起床、農道を軽く駆け足、終わって清掃と水汲み、そして、『正気の歌』の朗読の声が聞こえました。
 玄関の上に『群龍蟠棲寮』という板の額が掲げてあり、やがては天に昇る龍だと言う、大きな希望を持って生活していたと思われます。
 時々、子どもたちと先生で劇をやって、近所の人たちに見せてくれました。井上先生はとても劇の好きな方だったようです。
 『いかりや長介』という、のちに俳優になって有名になった人も、ここに来ていたのではないかという人もおりましたが、長介は前の年に井上先生に教わっただけで、富岡には来なかったらしいです。
 でも井上先生は、あとで当時のことを、
 「集団疎開というと暗いイメージを持つが、僕のところは大変な中にも一日一日が楽しかった。第一に、村人の親切と自衛炊事ということである。主として芋腹であったが、ひもじい思いはなかった」
 「残飯で豚を飼い、裏庭でそっと殺してもらい、肉をたんまり食ったこともあった」と。
 また、「時には、子どもたちが寝てしまってから、昼間採ったどじょうで小使さんと僕と近所の人で、ドブロクを飲んだこともあった」といいます。
 東京空襲も激しさを増した頃、ここの子どもは六年生であり、進学や初等科卒業期であったので、校長から三月始めに帰京するように言われたそうです。
 恐ろしい東京に子どもを帰すのは危険だし、少し見合わせてほしいと校長に頼んだらしいですが、終いに三月三日帰京することになったといいます。
 井上先生とすると、
 「一緒に一日中暮らしていた楽しい生活が終わるのもまた、悲しかった」と。
 仕方なく、三月三日親切にしていただいた村人たちと別れ、富岡をあとにして焼野原の東京に帰ったといいます。
 その一週間後の三月十日、東京夜間大空襲で、元気で引きあげた六年生のうち八人もがその空襲の犠牲になったとのことです。
 また、小使さんも油屋に来ていた組の担任の教頭先生も亡くなられたということです。もう少し富岡におられたら犠牲はなかったのにと思うと残念でなりません。
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