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家紋

谷中霊園です。
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/hirobeSeibei.htm

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

広部農場(東川町)の土地の文書



明治29(1896)年、岩本岩太郎が貸付をうけ、同36(1903)年成功付与の許可をえたときの文書。はじめは、新潟の人が申請してたんだ。あれ?ずいぶん人が変わってる…。名前が出てくるのは岩本で4人目。広部は5人目。この文書に広部の名前は出てこない。なので人名索引には入らない。人名索引だけみて、ないからとあっさりあきらめるのはもったいない。

同38(1905)年広部清兵衛に売渡して広部農場となりました。

#広部農場(東川町)#広部拓殖合名会社 #広部清兵衛

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広部農場(東川町)


 旭川周辺で何か面白いところはないかとネットで探していたところ、東川町に広部親交会館なるものをみつけました。「何?何?」さっそく訪ねてみました。行けばわかるだろうと思ったのは大きな間違いで、東川町役場で聞き、地図(方位、縮尺不明)をかいてもらい、やっとのことでたどりつけました。広部親交会館、園田仁右衛門翁碑、農場開拓神社は同じ敷地内にありました。所在地がわかりましたので、法務局で土地台帳を確認しました。ここではじめて、広部農場の由来がわかりました。さらに詳しく調べるために、図書館へ行きました。『東川村史』『東川町史』『ふるさと東川』『東川村発達史』により広部農場の概要がわかりました。思わぬところから広部観音のこともわかりました。時間旅行も楽しめる中身の濃い旅行となりました。

広部農場
 西1号より西8号、北3線より北7線の間に跨り、地積271町4畝19歩、平坦なる耕地である。この地は明治29(1896)年岩本岩太郎が貸付をうけたもので、同36(1903)年成功付与の許可をえ、後38(1905)年広部清兵衛に売渡したものである。同農場のこの期末(明治42年1909)の開耕地は、水田170町歩余、畑31反余で、なお未墾地を残している。小作人は本小作63戸、従小作27戸、計90戸に達し、なお続々入小作をみている。農場監督は園田仁右衛門で、その下に六名の部長がおかれている。『東川村史』

#広部農場(東川町)#広部拓殖合名会社 #広部清兵衛

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相馬妙見神社(農場開拓神社)


岩本農場の入植は明治29年4月14日であり、当時小作人一同が農場内の「たも」の大木を注連縄で飾り、毎年入植記念日を祭日としてお祭りを行ったのがはじまりで、その後農場は広部農場に変わり、素人相撲の若の森が東旭川忠別の相撲で相馬妙見を受けて持ち帰りこれを祭神としている。大正15年より広部農場が小作人に農地解放をはじめ昭和3年に農場が全部解放されたのを記念し、当時の農場事務所並びに倉庫所在地を広部拓殖合名会社より神社用地として二反歩譲り受け前記の相馬妙見を祀り、毎年4月14日入植記念日に例祭を行っている。『東川町史』

#広部農場(東川町)#広部拓殖合名会社 #広部清兵衛

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園田仁右衛門翁碑



東川町指定有形文化財第四号。昭和46年10月1日指定。大正5年10月建設。広部農場管理の功に感謝し建立されたものである。園田仁右衛門氏は明治28年移住団体60戸の長として胆振有珠郡に来たが、明治31年本町の農場管理人として移住開拓に従事した。『東川町史』

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観音像のこと
石川県に生まれ、成人と同時に金沢市で木工業に従事していたが、日清戦争がおこると同時に陸軍軍属を志願して渡清し、終戦と同時に帰国、直ちに移住した。
自分等の入地した土地は旭川の岩本氏が貸下をうけた農場であったが、後東京の広部銀行の手に移り広部農場となったが、その小作人として未開地5町歩を開墾し、その外他の小作人の世話をして開墾を促進したので、大正4年農場主広部清兵エ氏が昔の一厘ニ厘を集めて鋳造した観音像(高さ一尺余)を、開拓功労者として贈られた。後農場が解放されたので自作農となり、5町歩の水田を経営してきた。(園田伊助)『東川村史』

#広部農場(東川町)#広部拓植合名会社 #広部清兵衛 #広部観音

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広部親交会館

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広部農場跡地で開拓記念祭
 3月14日、広部親交会館(東川町)で旧広部農場の開拓記念祭が行われました。
 開拓当時旧広部農場が広がっていた15区、16区西、同東、13区北、同南の各地区と1個人(18区)で組織している元広部農場親交会の主催で毎年開いています。今年は約30人が出席して開拓の労苦をしのび新たな年の豊作を願いました。
 旧広部農場は、1905(明治38)年、開拓時の岩本農場を引き継いで開場し、周辺の水田を開作しました。
(Higashikawa 2011 April)

#広部農場(東川町) #広部拓殖合名会社 #広部清兵衛

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湯河原の廣部観音について

廣部和一様からいただいた情報です。

現在は湯河原の「大滝ホテル」にあります。
湯河原にある理由は、廣部清兵衛の別荘が湯河原にあったため
その敷地に建てたものです。

清一郎(清兵衛長男)から聞いた話では、市ヶ谷刑場跡に
観音様を造った時に全国に四体造ったようで、そのうちの一体です。
残りは福井と北海道だったようです。ただし湯河原以外は
戦争中に金属類の供出により無くなってしまっています。
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#広部清兵衛 #広部観音

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市谷台町と観音さま

市谷台町へ今年の5月に出かけてきました。
ビルの谷間にお堂が見えますか?
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市ヶ谷監獄首斬場跡
市ヶ谷監獄

#広部清兵衛 #広部観音

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湯河原の廣部観音について

これが噂の「廣部観音」絵はがきです。
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湯河原の廣部観音について
和一様から公開するのがもったいないくらい貴重な情報を頂きました。

現在は湯河原の「大滝ホテル」にあります。
湯河原にある理由は、清兵衛の別荘が湯河原にあったため
その敷地に建てたものです。

清一郎(清兵衛長男)から聞いた話では、市ヶ谷刑場跡に
観音様を造った時に全国に四体造ったようで、そのうちの
一体です。
残りは福井と北海道だったようです。ただし湯河原以外は
戦争中に金属類の供出により無くなってしまっています。

湯河原が残された理由は分かりませんが、清兵衛の湯河原
での友人に東郷平八郎がおり、軍も平八郎に気を使ったのかも知れません。
平八郎書の掛け軸(廣部君へ「観音坂」東郷平八郎と書かれています)
が存在しています。湯河原の観音坂は東郷平八郎の命名と思います。

四体造った時のレプリカが添付ファイルの写真です。
私も湯河原の観音様は見た事がありますが、レプリカ
とはまったく形が異なります。

観音様ss
写真提供:和一様ありがとうございました。

#広部清兵衛 #広部観音

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廣部観音

ネットで見つけた絵はがきが届きました。
「賽者絶えぬ廣部観音」(湯河原温泉)
湯河原に、広部観音や広部橋があるのは
どうしてでしょう?

#広部清兵衛 #広部観音

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