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廣部翁碑銘

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鄭義下婢、孔子廟堂碑、温泉銘など書道のお稽古で臨書をしますが、それは課題だからであって自分で選んで書いているわけではありません。解説文を読んでも特に響かないし。

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でもこの廣部翁碑銘は、はじめて書きたいと思った碑です。書きたいし、意味を知りたい。廣部精の思いがこの中に詰まっています。この碑の前に立つと様々な情景が目に浮かびます。生い立ちからはじまり、事業の業績や、家系のこと。廣部精が清兵衛翁の為にこの碑を建てたかった理由などなど。すべてはここに書かれています。

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明治38年1月19日
土方久元篆額
廣部精 撰文
巌谷修書丹 桐岳兜木岩次郎鐫

谷中霊園 乙種12号10側

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ちなみに「廣部谿香園」(ひろべけいこうえん)の「けい」の字は、足偏でした。「廣部蹊香園」。蹊とは小道のこと。杉の山道、竹の細道、杉の細道、松の小道、流の細道、紅葉坂道。図面を見ると確かに小道がたくさんあります。桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す。さぞかし多くの人が集まったことでしょう。

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北海道立文書館で国有未開地処分法完結文書を見ていたら、この碑に出てくる名前が並んだ文書を見つけました。次ページには綿密な事業計画が書かれていました。東京に残っていた資料は関東大震災や戦火で焼けてしまい、石に彫ったものだけが残ったのだなあと思っていました。紙媒体の資料が北海道に残っているのは奇跡です!



NHKの歴史秘話ヒストリア、次回(2019.7.24)のテーマは「脱藩大名 幕末・近代を駆ける」です。廣部家が出てくるのではないかととても楽しみにしています。

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驪山荘は近藤重蔵の屋敷ではなかった!!

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三田村別荘内守重の書院

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近藤重蔵翁旧跡書院を広重の絵になる江戸名所新富士頂上より俯瞰

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近藤重蔵宅を料亭に改装した。

活字で残されると信じてしまいますが、事実は違ってました!

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明治時代まであった近藤重蔵邸

『断腸亭日乗』昭和十二年十月三日の条
正午杉野君招飲の約あり。其経営する会席茶屋驪山荘に往く。(略)庭の南隅に立てる平家は曾て御書物奉行近藤守重の居室なりしと云ふ。(略)園の西方に富士を形取りたる築山あり。是広重の名所絵に描かれたる目黒の新富士なり。この築山と守重の居室とはその距離梢近過ぎるやうに見ゆ。居室は後人のために引移されてむかしの位置に在るものにては非ざるべし。新富士の麓をめぐり歩みて裏手に出れば地勢は西方に開け断崖をなす。眺望頗広く富士山を雲表に望む。

↑ここに書いてあります。平家って。

現地調査大事ってことで行ってまいりました。
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別所坂

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新富士の麓をめぐり歩みて裏手に出れば地勢は西方に開け断崖をなす。眺望頗広く富士山を雲表に望む。(現在はこんな感じです)

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新富士ゆかりの地下式遺構から発掘された大日如来像です。

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広部坂道!
北東方を新寺道、南西方を庚申道、北西方をしみず坂道に囲まれている。残りの一方南東方は草原地に(後には道沿いの一部に貸家を建てていた)接していた。

なんと驪山荘の建物は、近藤重蔵の屋敷ではなく、広部家が建てたものでした!
新築時の記念集合写真や池がある庭園の写真も見せていただくことができました。

北海道神宮の境内社、開拓神社のご祭神、近藤重蔵。
鎗ヶ崎事件のあと、近藤家も隣家もいなくなった後の屋敷はどうなったのだろうと思ったのが調べたきっかけです。驪山荘という料亭になったんだ。驪山荘と名前がついて料亭になったのは昭和12年。それ以前は、廣部谿香園(大正時代)と呼んでいました。

なんかすごいことになっちゃった。
お世話になりました皆様、本当にどうもありがとうございました。

(追記)
このお屋敷を建てた廣部さんと、藤本長蔵氏(帯広「藤丸」創業者)、多田平三郎氏が写っている写真があります。多田平三郎氏をご存知の方、いらっしゃいましたら情報をお待ちしています。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

驪山荘の概要

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一、木造瓦葺弐階家壱棟 建坪百四拾六坪、外弐階四拾七坪
一、木造瓦葺平家離れ座敷壱棟 建坪参拾九坪
一、木造瓦葺平家壱棟 建坪拾壱坪
倉庫、物置、ポンプ室、供待所、四阿、自動車小屋

 守重は、武州三田村に、別荘を持つてゐた。
 高臺に臨んだ景勝の地である。
 その別荘の庭へ、富士山になぞらへた築山をつくつた。
 物見高い江戸の人々は、これを、目黒富士と呼んで見物に集つた。

文政二年(1819)六月 築山
文政九年(1826)五月十八日 「鎗ヶ崎事件」

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安政4年刊行
名所江戸百景「目黒新富士」
絵師:広重
出版者:魚栄

 御旧邸命名の一件目黒なれば驪山閣いかがに候や驪ノ字今の世にはむづかしく候故これは別名と致し一般には目黒茶荘などの方宜敷かと存候近藤正斉一件判決文は小生も写置き所持致居候間御入用の節ハ御送可致候(昭和12年6月28日)

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昭和12年9月20日開店。
昭和13年5月18日、上野浄名院に故犬養先生の御冥福を祈念して、地蔵尊を建立した有志夫人たちを、未亡人は目黒の驪山荘にお招きになり、お手厚い御馳走をなさいました。
昭和14年5月、中村光夫結婚披露宴。
 目黒茶寮は近藤重蔵の下屋敷の建物をそのまま使った料理屋で、星ヶ岡茶寮の系統の、なかなか気取った店でした。
昭和17年7月、知的協力会議「近代の超克」座談会。
 ちょうど七月下旬の暑い日で、会場の目黒茶寮の広間は江戸時代の建物だけあって、庇が長くて陽が遠く、天井も高くて涼しい座敷なのですが、それでも早目に風呂にはいって浴衣がけで集まった一同はすぐ汗まみれになりました。
昭和19年廃業。
昭和34年「新富士」取り崩し。

驪山荘に関するメモ(未整理)


ゆっくり温泉に行きたいよ、と思いながら今月の課題、太宗の温泉銘に取り組む。
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なんとなく解説を読んでいると…。
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ん?驪山?むむむ。驪山の温泉宮。気になる。
気になって、書に集中できない。

あとで調べるためのメモ

・驪山荘にあった観月堂(現存!?)
http://www.kcn-net.org/kokenchiku/kotokuin/kangetsudo.html

・或る日驪山荘の秦さんのところで、秋田のきりたんぽだの雪菜ゆきなだのというものを、津田さんと二人で御馳走になったことがあった。
南画を描く話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
中谷宇吉郎先生も行かれたのですね!
https://furigana.info/r/%E3%82%8A%E3%81%96%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86

・驪山荘(リザンソウ)
 私は上京してからは目黒の驪山荘に居住することとされた。東京に何のつてもない私は役所の総務課が決めたことに従うばかりであった。 驪山とは秦の始皇帝が阿呆宮を建てた丘の名前である。
http://yokano74ki.g2.xrea.com/sengosyori.html

・『 珍品堂主人 』( ちんぴんどうしゅじん )は、中央公論に掲載された井伏鱒二の小説、および1960年に豊田四郎監督により製作された日本映画。

原作の主人公のモデルは、骨董品鑑定士で、魯山人とともに星岡茶寮を経営していた秦秀雄(のちに目黒の驪山荘、千駄ヶ谷の料理旅館・梅茶屋などを経営)。主人公と蘭々女史との争いは、秦秀雄と魯山人との、星岡茶寮をめぐる争いを基にしている。
http://www.wikiwand.com/ja/%E7%8F%8D%E5%93%81%E5%A0%82%E4%B8%BB%E4%BA%BA

・龢乃國 WA-no-KUNI 歴史を支えた“やまとなでしこ”
これは、すごい日記ですね。
http://wanokuni.org/2012/05/10/%E9%A9%AA%E5%B1%B1%E8%8D%98/

・塩原静『鳩山薫夫人』
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190311144150.pdf?id=ART0009875228

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国と国の境に関わる仕事をした人が、晩年隣人と境界でもめ、最後は獄中死。境界問題も子育ても難しいのは、今も昔も変わらない。この境界問題もいまだに解決しないし。

驪山荘、谿香園、どうしてこの名前にしたのかな。
(追記)谿香園にした理由←谷中霊園に答えがありました。

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驪山荘といふのは、永井荷風氏が命名したものださうである。

永井荷風は、父親が日本郵船の上海支店長だったから驪山も普通に知ってたのかな。

↑目黒に「驪」の字を宛てた先人は、荷風眷慕の狂歌師大田南畝。
漢詩文では目黒は「驪山」とも表記された。

寝惚先生文集/寝惚先生初稿の序①

日本武尊が東征の時、1頭の青毛(黒色の毛)の駿馬を手に入れ、これを乗馬(じょうめ)として愛でたという。これを漢字に宛て「驪」と書き、これを愛馬とし、「愛でる驪」つまり「愛驪(めぐろ)」転じて「目黒」となったと説く。

目黒の由来

日本武尊の東征までさかのぼるのすごい!

◎三木雄介  「驪山荘のこと」
http://d.hatena.ne.jp/nagai-kafu/

◎驪山荘--杉野・秋庭・相磯氏 / 広瀬 千香/p7~9. 日本古書通信. 53(2)(703)
 「ここを驪山荘と名づけた。驪の文字が好きだったらしい。江戸には北に北廓があった、西に驪山は対照がよいとした。驪山は故事に、玄宗の寵妃楊貴妃の住んだ宮殿の名である。先生は、その扁額をも執筆された。←見たい!

◎憂しと見し世:文学回想 中村 光夫/著 中央公論社 1982.3

◎驪山荘庭園について 平山勝蔵 p.16( 第17輯 昭和48(1973)年)
http://www.meguro-library.jp/data/local/

◎表・渡辺崋山筆目黒詣絵巻・明治時代まであった近藤重蔵邸(第15輯 昭和46(1971)年)
http://www.meguro-library.jp/data/local/

広部鉱業株式会社

炭礦もあったの!
広部炭礦、広部鉱業の川尻坑
http://saki-archives.com/2016/hirobecoalmine.html

広部清兵衛の足跡を探す旅

1. 谷中霊園
2. 刑死者慰霊塔
3. 永井荷風旧居断腸亭
4. 青峰観音
5. 市ヶ谷記念館(予約取れず)
6.驪山荘跡、目黒新富士跡
7.めぐろ歴史資料館
8. 大滝ホテル(広部観音、広部橋)
9. 万葉公園・養生園の碑(東郷平八郎)
10.日金山東光寺
11.箱根駒形神社
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まわりきれるかな…。

オプショナルツアーで
大橋食堂を探す旅も。
・ねむの木の庭
(せっかくなら足をのばしたい)

国会図書館、品川歴史館、五反田図書館、目黒寄生虫館、烏森神社とかもう絶対無理。まわりきれない。
無理でした。時間切れ。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

庚申信仰

心と身を浄めて、穢れを去り悪念に遠ざかり、一夜を神の前に参籠することによって、団体共同の幸福が得られると思っていたこと(柳田國男)

平成30年5月24日

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お供え物があります。信仰が続いています。

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『北海道 庚申塚縁起話』



『北海道 庚申塚縁起話』会田金吾著
先人の置き土産、北海道の庚申塚について調査しまとめられたものです。庚申信仰のあらましから解説されています。庚申塚の分布図、所在地、願主の名前などが記載されています。写真も豊富。会田金吾さん、ありがとうございます。感謝。

越中へ

越前神社のことで頭がいっぱいですが。
ちょっと越中へ出かけてきます。
北川五郎右衛門のお墓探しです。
あてはありません。

江差町の豊丘神社(越前神社、開墾神社)

現地へ行ってませんので、書籍やネットの情報です。早く現地調査したいです。

豊丘神社(越前神社、開墾神社)は越前部落の氏神である。戦前の社格は無格社。祭神は大己貴命・豊宇気姫命・少毘古那命の三柱である。

 越前部落は、文久二年(1862)五月、越前から入植した鈴木吉郎右衛門ほか六戸の農家によって開かれた。現在でも、部落四十軒のほとんどが越前出身者であり、豊丘神社は越前神社とも呼ばれている。
 神社の場所は、昔はもっと下の方(問屋町ー問屋仲間が開いた部落)にあった。初めのうちはお堂がなく、草地を刈り払って、木の黒皮を剥いで作った鳥居を建てただけの神社であったが、慶応二年(1866)に姥神大神宮の遥拝所として小さなお堂を建て、「開墾社」とした。明治五年に土地を譲り受けて、お宮を現在地(越前町)に移した。建築資材は川沿いに船で運んできた。その時神社の名称を「開墾神社」から「豊丘神社」に変更したが、現在でも「開墾神社」「越前神社」といった方が通りがよい。
 昭和三三年に社殿を改築した。
『江差町の社会と民俗・北部地区の事例』より

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テーマ:札幌/北海道の地域ネタ - ジャンル:地域情報

越前神社を探す

道産子さんからコメントをいただいて思いだしました。
越前神社を探しに出かけたことを。
写真をたどると 2015年11月30日です。
雪原の中、道無き道をズボズボ進んで写真を撮ってきました。
雪がとけたらまた行こうと思ってそのままです。
【帯広市昭和町西1線】

何か詳しい情報をお持ちの方いらっしゃいましたら
お知らせください(^-^)

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北川五郎右衛門

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戸籍を遡っていくと北川五郎右衛門で行き止まりでした。10年間、保留にしていた案件です。
『コンニャク屋漂流記』星野博美に北川五郎右衛門について書かれているのを見つけました。
何度も読み返しながら、調査計画を練ります。ワクワク。

『コンニャク屋漂流記』

星野博美さんの『コンニャク屋漂流記』を一気読みしました。
家系調査あるあるが満載です。ぜひ読んでみてください。
自分の家系に関係がなくても楽しめると思います。

関係ないと思いながら読んでいて、知ってる人名が出てくる衝撃!
(五郎右衛門、五兵衛、セキヤ)
私の調査エリアの詳細な記述がでてきたり…。

星野博美さ〜ん!直接お話うかがいたいです!
大橋食堂のことご存じないでしょうか。
私、北川五郎右衛門の子孫です!
こむ
ご連絡お待ちしています。

でもやっぱり同姓同名かな。
漁師とか、外房、紀州、全く聞いたことないもんね…。
五郎
廃棄済みって…。
手がかり見つからず、五郎右衛門は調査保留になっていました。

大橋食堂についてはコチラ→大崎広小路駅前だったのかも

美唄の獅子笛

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北海道へ移住してきた先祖がどんな生活をおくっていたのかよ〜くわかります。底無しの沼、恐ろしい…。

広部さん必見の書

福井県丹生郡清水町のオススメ郷土資料

清水町史(上下補遣)昭和53年12月10日発行
越前国宗門人別御改帳 佐久高士編 吉川弘文館



お近くの図書館にない場合は相互貸借制度を利用してぜひ読んでみてください。

Shimizupedia(しみずっペディア)
福井県立図書館
越前若狭諸藩の分限帳・由緒書を収載した資料の一覧
福井県文書館
福井県立歴史博物館
福井市立郷土歴史博物館
プロフィール

弁財船

Author:弁財船
札幌市北区北13条西4丁目
北大13条門の前にあった
おいしい食事とお酒のお店、
弁財船は、閉店しました。
ありがとうございました。
営業時間:11:30-23:00
日祝定休
011-***-****

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